アメリカ合衆国の紅茶の歴史

北アメリカの植民地では、オランダ系の移民がニューアムステルダムで茶を広めていました。そして、アメリカ植民地では、お茶は英国やオランダ、ロシアと同じように発展していきます。ロンドンでコーヒーハウスやティーガーデンが発達したように、アメリカ植民地でもこれらの施設は同じ名前が使われていました。

また、ボストンやフィラデルフィアでは、お茶を銀製や磁器の茶器を使って飲むことが、一種のステータスシンボルになっていました。

18世紀のはじめには、中国から輸入されたお茶は最も人気のあるお茶になりました。1760年代になると、アメリカ植民地でお茶は織物や工業製品の次に大きな輸入品になっていました。

ボストン茶会事件

その後、1773年の12月16日に、「ボストン茶会事件」が起こりました。アメリカ人は、イギリスのお茶に対する重い課税に腹をたてていました。アメリカが輸入する紅茶は、イギリス東インド会社によって運搬されていて、その紅茶には重税がかけられていたのです。

Boston Tea Party, Boston, Massachusetts, Illustration
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お茶に対する税金に抗議して、アメリカ先住民に扮したアメリカ人たちがボストン港に停泊していた英国東インド会社の船に乗り込んで、342個の茶箱をボストン港に投棄したのです。この事件のあと、フィラデルフィアなど他の港でも同じような事件が起こりました。ボストン茶会事件はアメリカ独立戦争へとつながっていきます。

アイスティーの登場

1904年のセントルイスで行なわれた世界博覧会では、インドのお茶がアメリカ合衆国にもたらされました。

規模の大きな博覧会であり、会場の広さは485万平方メートルもありました。また、広い敷地には鉄道も敷設されていました。入場者は世界中から集まって、1280万人にも達したといわれています。

このとき、英国人のリチャード・ブレチンデンという人物がたまたまアイスティーを発明することになります。彼は紅茶の輸入業者で、この博覧会で紅茶の宣伝をしていました。世界博覧会が行なわれたとき、とても暑い日が続いて、誰も熱い紅茶に興味をもちませんでした。彼は熱い紅茶の中に氷を入れて、冷たい飲み物として紅茶を売ることにしました。猛暑に耐えかねた人々は、リチャード氏が販売していたアイスティーに殺到し、アイスティーはたちまち爆発的な人気商品になりました。これがアイスティーの誕生であり、アイスティーは現在でもアメリカ合衆国のみならず、世界中で人気のある商品になっています。

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