インドの紅茶の歴史

インドの紅茶の歴史を解説しているページです。イギリス東インド会社による紅茶の独占から、ロバート・ブルースによるアッサム種の発見までの経緯。そして、チャールズ・ブルースによるアッサム種の栽培から成功までの歴史を辿ります。

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イギリス東インド会社による紅茶の独占

イギリス東インド会社は1600年に設立された貿易会社です。18世紀の初めまで、イギリス東インド会社は中国との茶貿易を独占していました。インド国内では、ボンベイやベンガル、マドラスなどに取引所がありました。

イギリス東インド会社はインド経営を重点としており、その植民地化を推進する存在でもありました。

その後、1763年に起こったフレンチインディアン戦争によって、イギリス東インド会社はその特権的な地位を徐々に失っていきます。また、会社内部の財務不正や、汚職、紅茶の密輸などの問題にも苦しんでいたといわれています。

ロバート・ブルースによるアッサム種の発見

1823年になると、ロバート・ブルース少佐がインドのアッサムの北東で自生していた茶の茂みを発見しました。その後、弟のチャールズ・ブルースは、この自生の茶樹や茶種子を、カルカッタ植物園長のウォーリック博士に送りました。しかし、残念ながらすぐには認められませんでした。

ブルース兄弟の功績が認められなかった理由としては、当時のイギリス東インド会社が中国茶の貿易を独占していたこともあって、本格的にインドにおける茶の製造に乗り出す必要がなかったということがあげられます。

茶業委員会の設立

しかし、1833年になると、イギリス東インド会社は中国茶の貿易の独占権を失いました。これが転換点となり、英国人はインド独自の茶の製造に本格的に着手していきます。1834年には、インド提督のウィリアム・ベンティック卿により、「茶業委員会」が設立されました。茶業委員会のメンバーは中国に送られ、中国種の茶の種を輸入しようとしました。茶業委員会は最初、ロバート・ブルースがアッサムで発見した茶の木はインドに固有のものではないと考えていて、インドで中国種の茶を栽培しようとしたのです。そうして、中国産の茶の種がカルカッタの植物園に植えられて栽培されました。

チャールズ・ブルースによるアッサム種の栽培

そうしている間に、アッサムで、チャールズ・ブルースは、茶園を開発するために土地を開拓していました。自生していたアッサム種の茶の茂みから葉をむしって実験も行なっていました。ブルースは、中国から二人の茶の専門家を雇い、彼らの助けもあって、ブルースは着実に茶製造の秘密を学んでいきました。

アッサム種の開発と茶園の開拓はとても厳しいものだったようです。茶園で働いていた労働者たちに、トラやヒョウなどの猛獣が襲いかかることもありました。また、入植地が地元の部族たちによって襲撃されることもありました。それでも、ブルースたちは懸命に茶園の開発を続けていきました。

アッサム種の成功

1838年には、アッサム産の茶葉が英国に向けて発送されました。翌年にはロンドンのオークションにかけられて、当時のバイヤーたちから優秀な茶葉であるという評価を受けることができました。

アッサムで製茶に成功した後、1850年代になると、ヒマラヤの山すそにあるダージリンでも、茶の栽培が開始されました。

その後、インドの茶の輸出量は年々拡大を続けていき、1885年には輸出量は3万5274トンにまでなりました。

今日、インドは世界で最大の茶の生産国のひとつになっています。また、驚くべきことにインドでは、二百万人以上の人がお茶に関連した仕事に従事しているといわれています。

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