ジェームス・テイラーとスリランカの紅茶の歴史

スリランカでは、1825年にコーヒーの栽培が開始されました。その頃、スコットランドからたくさんの開拓者が移住し、1857年には8万エーカー以上の土地が開拓され、たくさんのコーヒー農園ができていました。スリランカではもともと紅茶よりもコーヒー栽培のほうが盛んだったのです。

1839年には、インドのカルカッタの植物園長であったウォリック氏が、スリランカのキャンディにあるペーラーデニヤ茶園にアッサム種を送りました。

しかし、スリランカでは、コーヒー栽培のほうが儲かったことと、茶の栽培が難しいという理由から、コーヒーから茶の栽培に切り替える農園主はまだいませんでした。

コーヒー農園におけるサビ病の流行

しかしながら、1869年に、キャンディでサビ病が蔓延したために、コーヒーを栽培していた農園は大きなダメージを受けることになりました。サビ病とは、コーヒーの葉の病気であり、伝染率が高く、農園全体が全滅してしまうこともありました。

スリランカのプランテーションの所有者たちは、財政上の破滅を避けるために、コーヒー栽培から茶栽培へ転換していきました。何百万ものサビ病にかかったコーヒーの木々を引き抜いて、燃やしていく作業は大変なことでした。また、新しいコーヒーの苗木を植えても、すぐに枯れてしまったので打つ手がありませんでした。結局、コーヒー農園は矢継ぎ早に倒産していったのです。

ジェームス・テーラーの登場

スリランカで茶栽培が急速に発展したのは、インドからやってきた入植者達や、ジェームス・テーラーの卓越した指導力のおかげだったかもしれません。

1851年に、スコットランド出身のジェームス・テーラーは、スリランカに渡りました。彼は当時16歳であり、最初はコーヒー栽培の助手として働いていました。

彼がスリランカで仕事を始めて5年後に転機が訪れました。彼の雇用主であったハリソン氏とリーク氏は、ジェームステーラーの仕事ぶりに感銘をうけて、ルレコンデラという茶園を彼の担当にさせて、茶樹の栽培の実験をするように指示しました。スリランカのコーヒー園はサビ病の流行によって壊滅状態にあり、農園主たちはコーヒーから茶へ方向転換するしかなかったのです。

インドでは、茶の木の栽培の成功には15年以上かかりましたが、テーラーは2年ほどで成功させました。

ジェームス・テーラーはスリランカに最初の製茶工場を建設しました。それは工場とはいっても、とても原始的なものでした。

その工場はすぐにスリランカで有名になりました。1872年に、ジェームス・テーラーは揉念機を作りました。また、彼は茶樹の苗木を交配させて強い品種を作っていきました。ジェームステーラーがスリランカの紅茶産業の礎をきずいたといっても過言ではないでしょう。

セイロンティーの発展

そうして、セイロンティーの人気は高まっていき、1883年にはスリランカのコロンボに最初のティーオークション市場ができました。

その後、セイロンティーは世界中で広く宣伝されていきます。かつて、お茶といえば中国だったのが、19世紀の終わりになるとそれがセイロンにかわったのです。その頃、英国の紅茶会社やブローカーたちは、それぞれ自分自身のプランテーションをもって、中間業者を廃したいと考えるようになりました。この時期は一種の転換点であって、紅茶が栽培される国よりも、紅茶のブランド名がより重要になる時期でもあったのです。

スリランカの紅茶生産の歴史においては、さまざまな業績を残した人物がいますが、ジェームス・テーラーは、「セイロンティーの神様」とまで呼ばれて崇められている人物です。

スポンサードリンク
ティーバッグの歴史 インドの紅茶の歴史


HOME > 紅茶の歴史 > ジェームス・テイラーとスリランカの紅茶の歴史
inserted by FC2 system