ティークリッパーレース

紅茶の歴史をたどるうえで、忘れてはならないのがティークリッパーです。ティークリッパーとは、茶を運ぶ快速船であり、当時、中国からイギリスまで茶を運ぶ時間が短時間なほど、茶には高値がつきました。その年の新茶を一番に運び入れた船に賞金を出す、「ティークリッパーレース」が始まったのです。

Tea Clippers Seen Racing off the Cornish Coast
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19世紀の半ばになると、ティークリッパーレースは激しさを増していきました。中国の東シナ海を出た船は、インド洋をわたって、喜望峰を回り、大西洋を北上し、ポルトガルのアゾレス諸島を通り過ぎて、イギリス海峡にたどり着いたのです。英国に到着したティークリッパーは、テムズ川をタグボートによってけん引されて、ロンドンの波止場に最初に到着した船が勝者であるとされました。最初に到着した船の船長と乗組員には、賞金が与えられました。

アメリカ人は最初に新しいタイプのティークリッパーを建造しました。アメリカ人が考案した新しい船は流線型をしていて、より多くの積荷を運ぶことが可能であり、また、スピードも速いものでした。3本のマストがついた、750トンの「レインボー号」は1845年にニューヨークを出港しました。レインボー号は東インド会社の船の二倍のスピードを誇ったといわれています。

英国人がつくった最初のティークリッパーは、「ストーンアウェイ号」ですが、これは1850年にスコットランドのアバディーンを出港しました。その後、ほかにも多くのティークリッパーが登場しました。

おそらく、もっとも有名なティークリッパーは英国の「カティーサーク号」でしょう。カティーサーク号は1868年に建造されました。

ところが、1869年にスエズ運河が開通しますと、帆船に代わって蒸気船が主流になったためにティークリッパーレースは終わりました。それとともに、せっかく建造されたカティーサーク号も目立った活躍も見せることなく、姿を消していきました。

カティーサーク号はロンドン郊外の街、グリニッジに展示されています。

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